No.113:南洋堂書店「東京の微地形模型」と上野「東叡山」[東京]
(2012-03-21 18:22:01) by 松永英明


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http://www.kanto-geo.or.jp/tokyo_note/No39_2.pdf

このPDFファイルの26ページの図26では、千束池と姫ヶ池がつながって一つの大きな池にも見えます。まさにこれは江戸城から見て「東の琵琶湖」と呼ぶにふさわしい規模の池だといえるでしょう。27ページの図30には旧千束池の範囲が明示されています。

隅田川西側の当時の浅草区や下谷区であった低地には、 現在の浅草公園の西側から吉原にかけて「千束池」と呼ばれる巨大な沼地があった。 この沼地は深さが20m以上もある深いものであったとの推定もあり、 浅草区北部や下谷区北部での地震・揺れの大きい地域に関連していると思われる。 現在、台東区千束はこの沼地のほぼ中央に位置し、 かつての沼の名称を継承した町名となっている。

つまり、家康が江戸にやってきた時代には浅草の西には大きな池があり、それが埋め立てられた後も「浅草田んぼ」というような低湿地帯が残っていました。この広大な「山の東の低湿地・池」があるがゆえに、上野の丘を東の比叡山に見立てることが可能になったのではないか、とも思うのです。

もう少し調べると、この一帯の「低湿地」ぶりがよくわかります。

入谷
http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/taitou-imamukasi/iriya.html

昔、この入谷一帯は千束池の底であった。 天正の頃(1573?92)、鳥越村民がその千束池を埋立てて田圃にしたという。 江戸時代を通じて、大部分が田圃で、殆ど変化もなかったという。

なお、寛永寺は天海が二代将軍秀忠から賜った地に創建されたもので、藤堂高虎・津軽信枚・堀直寄の三大名の下屋敷だったものをわざわざ天海に賜ったものです。それはまさに「東の比叡山」を実現するためにこの場所がどうしても必要だったからなのでしょう。

浅草の弁財天

さて、千束池が「東の琵琶湖」だとすれば、必要不可欠なのは弁天様です。琵琶湖の竹生島の弁才天は奈良時代に聖武天皇の命により作られたもので、湖の交通を守る水の神として祀られたのがはじまりです。

なお、竹生島のウェブサイトによりますと、竹生島の観音堂と唐門は「豊臣秀頼の名を受け普請奉行の片桐且元が1603年に移築した」、重要文化財の舟廊下は「豊臣秀吉の御座船日本丸を利用して作られた」と記されており、豊臣氏が深く関わったことが伺えます。

では、不忍池ではなく上野の東の浅草近辺に弁才天は? 有名な弁天様がおりました。浅草寺弁天堂にいまも祭られている白髪の「老女弁財天」です。これは由緒書きには「小田原北条氏の信仰が篤かった」と紹介されています。とすれば、家康が江戸城に入る前から老女弁財天は浅草で信仰対象となっていたといえるでしょう。

もう一つ、千束三丁目の吉原神社に弁天様が祀られていますが、これは新吉原遊廓が作られたときに土地造成でできた弁天池に祀られたものということで、寛永寺よりは後ということになります。

すなわち、千束池を東の琵琶湖に見立てるならば、東の竹生島弁才天に当たるのは浅草老女弁財天ということになるでしょう。

ただ、この対比は「忍岡=東叡山」と見立てるまではよかったものの、すでに埋め立てられた千束池では竹生島を再現するのは難しかったのではないでしょうか。そこで、方角は異なるものの、池として残っている不忍池に中の島を作り、そこを第二の東の竹生島として弁天様を置いた――というストーリーを想定してみたいと思うのです。

もちろん、この想定には今のところ文献的な裏付けはありません。しかし、「千束池(の名残の低地)こそが東の琵琶湖に見立てられた」と考えれば、あえてこの場所を選んだ天海と秀忠の思惑が見えてくるようにも思えるのです。

「霜柱理論」

さて、この模型を見に来ていた方の雑談の中で、気になる言葉を耳にしました。それは「霜柱理論」というものです。これこそ、この模型と下北沢の地形を結びつけ、ひいては「世田谷東部の丘の南斜面の八幡神社」の謎の解明につながる重要なキーワードだったのです。

以下、次号。

Tags: 上野, 千束池, 地形, 東叡山, 浅草

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